岩国のおばあちゃんの話

投稿者: | 2015年6月17日

j.miyamono_natsuka

宮本常一「なつかしい話」より

「それは私、山の中で、岩国のずっと奥の方の山中だったんですが、
村の中一軒一軒をずうっと訪ねて話を聞いたことがあった。
そうしたら八十六か七になるおばあちゃんが、たった一人で暮らしている。
それも行ってみるっていうと、それこそ気の毒なような小屋で暮らしている。
どうしてこんな小屋で暮らしているのかって聞いたら、
洪水で山崩れがあって、その谷の口にあった家がつぶされてしまったという。
子どもはおるんです、岩国の方に。
子どもたちは、岩国へ来なさい、いやわたしはいやだ、という。
それで家がつぶれてしまっても、ここにおるんだといったら、
村の人がとにかく古い納屋を解いて、持ってきてくれた。そして建てた。
そこに住んでるんですがね、一人で。
そのおばあちゃんは、鎌が一丁と、鍬が一丁、あと石臼がある。それで暮らしている。
それが全く最敬礼したんですが、流された土をね、もう一ぺん拓いて畑にしましてね、
そこで野菜をつくっている。
その野菜はね、とにかく一月に一ぺんか二遍ずつ来る岩国の子に、
手土産に持たせるために作っているんです。
それから隣近所に世話になりましょう。その世話になってる人にその野菜を配る。
それでメシ、食べられるんですなあ。
鍬一丁のもつ生産力に感心したのです。二丁必要ないんですわね。
けっして貧しいから一丁ではなくて、自分で使いこなせるのはこれ一丁でいいと。
草が生えたら鎌で刈りゃいい。
自分ではもう研ぐ力がない、八十六にもなりますとね。
刃が丸まって切れんのだと言うと、近所の人がみんな研いでくれる。
夜になると電灯もつかない。電灯は要らないという。早う寝るんだから。
外から見ると、じつにその人の生活というものは、陰惨で、時代遅れでと思うんですが、
ご本人自身の中へ立ち入ってみますとね、それは実に豊かなんですわな。
なんら困ることはないんですね。
そしてわずかばかり小麦を作ると、自分で臼でひいて粉にして、団子こしらえているんです。
とにかくこんな生活しておっても、乞食はしておりません、
岩国へ行って子どものところで、こんな生活ができますか、
そこへ行けば隣近所というものがあって、ポツンとしていなければならない、
そんな生活はたえられない、という。
いったい、いつまでそれをなさっているんですかと聞いたら、死ぬまでやりますと。
そういう生活のたて方というものがあったんです。
それをね、上の方から見ると、年寄りを一人でおいてくということになるんでしょうが、
じっさい問題はそうじゃない。
そうやっていくことで生きがいを感じているのです。
それがほんとうの姿ではないだろうか。」

これに、作家の山崎朋子がこう応じてるんですね。

「私が、二年位前ですか、アメリカの西海岸、
先生の出身地の瀬戸内の人もどんどん移民して渡ったところですけれど、
そこに一世のおじいさん、おばあさんを訪ねて歩きましたら、
なんと一人暮らしの人が実に多いんですね。
それをどこだかの新聞に書きましたら、投書がたくさんきましたのを見て、
私がとても妙な思いがしたのは、あんな淋しい、かわいそうな暮らしをしてお気の毒だ、
アメリカでご苦労があったのに、せめて晩年ぐらいはもっと大切にされてもいいじゃないか
と言うものが圧倒的に多かったことです。

・・・ところがそういう手紙を下さった人たち、かなり年輩の老人層も多かったんです。
で、私こんどは逆にお返事を出して、失礼ですがあなたはどういう生活をしてらっしゃったかと、
特に女の方に伺ったのです。
そうしたら、そこで一つ分かりましてね、それはサラリーマン層のかみさんですね。
夫に養われて、都市の会社員の妻としてずっと生きてきて、六十、七十歳をむかえた人たちは、
やはりそういう一人暮らしは果てもない恐い世界なんです。
ところが私どものばあさまだとか、
要するに自分の食べるぐらいは、戸主とか家の代表者の名前はともあれ、
自分だって一人前の働きをしなければ女として一人前に扱われなかった人たちですからね、
家事育児だけですごす女はひと昔前までは役立たずで三行半ですからね。
一人前の女の働きをして生きてきた女の人たちというのは、
自分の裁量で自分一人生きるということに
余人が考える程怖れも違和感も感じてないということなんです。」

 

こういうのを読むと、
昨今の「都市から地方への高齢者の移住推進」という地方創生の議論が、
まったく数字合わせだけの机上の空論だということがはっきりわかりますね。

ま、都市の高齢者は男も女も「役立たずの三行半」なんだから、
姥捨山のつもりで地方に追いやりたい、という意見がまかり通るようになってきたのでしょう。

しかしあれですね。
そういう口車に乗せられて地方に移住でもしようかっていう高齢者は、
やっぱり小金持ちな上に、年金を食いつくす団塊の世代の人たちなんでしょう。

だとしたら、
地方に招くにあたっては、まずその年金の返上と財産没収が条件だね。
それと、生涯の労働奉仕。

それこそ僻地に住むばあさんやじいさんに、
草の取り方から野菜の作り方、季節の過ごし方をいちいち一から教えてもらうといい。
人間としての生活力の差を生身の心身で感じてもらわないとね。

うん、それならいいかも。

僻地に移住してまで、都市と同じような生活スタイルを維持しようと思っても、
そうは問屋がおろさない、
ということをはっきり覚悟して来てもらわないとね。

いいね。
日本の再生というのは、
実際そういうところから始まるんじゃないかと思う。

子どもの教育が問題なのじゃなくて、
自分の保身にだけかまけて結果的にこういう社会を築いてきて、
無事定年退職を迎えた輩の方が問題なのだと思う。
一番たちの悪い「無作為の作為」を地で生きた人たち。

だからこそ、そこでリタイアじゃなくて、
そこからもう一度生まれ変われるチャンスを設けてあげるのがいい。
介護も必要だけれど、
介護に頼らず、一人ででも生きていける強い身体と心を鍛える方が重要だよね。

これから90も100も生きるような高齢化社会なら、
こういうリボーンの施策こそ本来の社会福祉なんじゃないかと。

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